頑張っちゃうキラキラな自分を手放したら

エッセイ

みなさま、おはようございます。

先日、親友とZOOMで話していて気付いたのは、「私、いつの間にかキラキラな自分を手放していたんだな」ということ。

キラキラな自分がたぶん心から楽しかったときもあった

思えば27、8歳頃までとそれ以降とで、自分自身けっこう変わったかも?と思うのです。
それまでは仕事も美容(外見だけでなく精神面も含む)も友達の輪もインテリアも家事も趣味もとにかくなんでも、頑張ることが良しと思っていたし、「頑張る」という感覚すらもなく、それが自分にとっても心から楽しいこと、女磨きのひとつ、のような感じで取り組んでいた気がします。

でも27、8歳の頃、「これって本当に私がしたいこと?」「刷り込まれてきた大人像を勝手に目指していただけかも?」「一般的にそうするのが良いから自分もそうしているみたいなところない?」と気づいて、ひとつずつ、少しずつ、「本音じゃないもの」を取り除いていった気がします。

きっかけはなんだったのか

きっかけは、なんだったのでしょうね。
27歳28歳の頃、私はこんな風に感じていたのではないかな?という気がします。

  • 仕事では次の場所を求めていた
  • 今振り返れば微妙な恋愛をしていて、それを終わらせたかった
  • 本当に住みたい場所に住みたいと思っていた
  • 求められることに応えてきたけど、それで自分は幸せ?と疑問
  • このまま同じような生き方をすることが嫌かも

きっかけというきっかけがあったかは微妙ですが、なんだかいろんなことが「もう自分に正直と思えるものだけにしたい」というタイミングだったのだと思います。

一番大きかったのは、都内のマンションから住んでみたかった鎌倉に引越したこと。
それが最初の一歩になっていろんなことが良き方に変わっていった気がします。

引越すと決めたことでイマイチだった恋愛もやめて、通勤に時間がかかるので残業や飲み会もほとんどせずまっすぐ帰り鎌倉駅のホームで潮と緑のにおいを胸いっぱい吸い込んで生き返る日々、身体的にも心理的にも窮屈だったスカートの仕事着やストッキング、ヒール靴などを辞めて、週末はやってみたかったサーフィンや海の目の前のスタジオでヨガしてリフレッシュする…

そんな生活が始まって、家族や勤務先の人、友達は驚いていたけど、私は一人だけとても快適でした。
「なんとなくこうするものらしい」ということのうち、自分にしっくりこないものをひとつずつやめて本当に自分が望む選択をしていったら、他の誰かの期待ではなく自分の希望を叶えていけばいいんだ、と分かった気がして。

私がこれまで生きてきた場所では「なんとなくこうするものらしい」を上手に消化して、それをガイドに生活したり未来を楽しみにすることがみんなそんなに苦ではないらしく、長らく自分もそうだと思っていたのだけど、「なんだかもっと私らしくいられる場所や方法があるはず」という気持ちがあって、もやもやしていたのかもしれませんね。

手放しても手放してもなかなかラクにならない

そんなわけで28歳の頃に鎌倉に引っ越し、もっと気楽に生活を楽しめるようになったのですが、驚いたのが、手放しても手放しても、なかなか「ラク」はやってこないこと。

たとえば、残業や飲み会をやめてみたら、通勤着を改善したくなったり、その次は部署も変わりたくなったり、感染症の波がやってくる頃には出社するのも苦になってきたり(仕事の面というより通勤の手間という実用の面で)…

仕事ではなく私生活でも、服を減らしてもメイクの手間を減らしても暇な時間だらけになるわけではなく、ありがたいけど距離を置きたい人間関係もあるし、もっとブログを書いたりヨガをしたり、他にしたいこともあるのにそこまで動ける気力体力もなくて…

いろんなことを手放してやめてみて気づいたのは、私は自分で思っていた以上にキャパシティの狭い人間なのかも!ということ。

これまでの頑張り癖からこのくらいはできると思っていたけど、色々やめてもまだやめたいことが出てくるものだから、「なんだこんなに頑張ってしまっていたことがあったのかー」と気づくと同時に、「私がやることは、本当にちょっとの、必要なことだけで十分なのかもな!」と気づいて、なんだか急にホッとするような、軽くなるような感じがあったのです。

「こんなに少ないものでも楽しく生活できる」と気づいたときと同じように、「こんなに少ないことでも自分にとっては十分なのだ」と気づけた感じ。

「もの」だけじゃなく、「こと」だって少なくていい

周りの期待に応えすぎて自分の本当の希望が見えにくくなってしまった癖が残っていて、きっと「優秀と言ってもらえる自分」とか「難しいことや多くのこともできる自分」を手放すのが難しかったのでしょうね。

学校生活でもそうだし、勤め先でもそういう基準での評価にさらされてきたのだろうなと振り返ると思います。
私はそういう中でも自分を向上させていけると信じていたけど、そもそもそうしたくなかったし、そういう場所で優れていられるタイプでもなかったんだなあと認めたら、すっごく楽になりました。

必要な「もの」だけで生きることとそれによって人生が好転する感じはこの10年ほどで実感しきっていたのに、「こと」については全然考え及ばなかったのだなあ、というのもどこか新鮮です。

「こと」は形がないからこそ、よく見えていなかったのだろうなあ。

私がしたいこと、私にできること、実はそんなに多くもないし大それてもいない。でもそれが何か分かっていて、そこに手を伸ばせるなら、もうそれだけで十分なのだよな、とも思ったり。

だからどこにいても、どんなことでも、そこで自分のしたいことやできることを誠実にしていれば、それだけで良いじゃない、今はそんな風に、人にも自分にも感じています。

キラキラじゃない普通の自分がラクで楽しいし満足している

ナチュラルボーンキラキラ人間だったときは、なんだかいつも不安を抱えていたような。
自分にはここが足りないからこういうことを頑張らなきゃ、と考えることも多かったです。それでいろんなことにエネルギーを注げた良さはあったと思うけれど、私は今の私の方がずっと心地よいです。

もう誰の期待に応えなくてもいいし、誰とも比べないし、誰かの声にたじろぐこともないし、人のことはその人の目線を最優先にできると思う。そしてそうあることについてなんの不安もない。今までよりずっと真に強い自分でいられているな、とも思います。

20代のキラキラなまんま30代になって大人として成熟していくのだと思っていたけど、やっぱり思わぬ方向に行くことってあるのですね!でも嬉しい誤算です。大人になる面白さって、こんなところにもあるのですね。

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