日常はその人なりの形に収束していく

海外暮らし

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みなさま、おはようございます。
今日のタイトルは、この作品から。

ニューヨークに住もうと、
生き馬の目を抜くような生活をしようと、
日常はその人なりの形に収束していくのではないだろうか。

57頁 近藤聡乃『ニューヨークで考え中③』

ニューヨークで暮らす近藤聡乃さんのこの一言を初めて目にしたとき、そうなのか、という静かな驚きがあって、以来ずっと心に残っています。

ベトナム・ホーチミンシティに来て、14日間の健康観察期間も明けていないくらい、まだほんの少し。

カフェも覗いていないし、お店の中にも入っていないし、外食もしていないけれど、そんな閉じた海外暮らしの序章であっても感じるのは、「日本にいても海外にいても、結局わたしの暮らしはわたしの暮らしとして、大差ないのかも」ということ。

新しい土地に来て感じていることと、心の中にそっとしまっておいた、「日常はその人なりの形に収束していくのではないだろうか」という近藤聡乃さんの言葉が結びついて、どこか予言めいて聞こえたりもして。

自分で選んだこととはいえ、仕事を辞めて配偶者に帯同することにして、気に入っていた街からは引越して、持ち物の多くを手放して、家族とも離れて暮らすことになりました。

自分を自分たらしめていた外的なものをひとつずつ脱ぎ捨てていく心地よさのようなものもある一方で、何者でもない者になってしまうんじゃないかという、不安めいたものもありました。

だからかもしれないけれど、きっと海外暮らしになったら何かが変わる。新しい何かに出会って、良いことがたくさん起こる。そんな風に思っていたい自分がいた、そんな気もします。

でも今感じているのは、ただ海外暮らしになったからといって、良いことが勝手にたくさん舞い込んでくることは無さそうだ、ということ。

ホーチミンシティの自宅に来てから私がしていることといえば、少しブログを書いたり、手紙を書いたり、封筒や葉書を彩色したり、刑事ドラマの再放送を観ながら寝落ちしたり、ちょっとベトナム語を勉強してみたり、ヨガをしたり…あれ?これは考えてみれば、日本での余暇の過ごし方と変わらない。

とはいえ今はまだ健康観察期間。自主的に外出しないようにしているから、仕方ない仕方ない。

外出できるようになったらしたいことは、行きつけのカフェを見つけること、本屋さんを覗くこと、図書館で本を借りること、散歩して素敵なお店を覗いてみること、ジムで鍛えること、語学学校に通ってベトナム語初級ができるようになること…あれ?思った以上に日本にいた時と変わらないかも?と、ここでちょっと焦る。

これがわたしの暮らし方のリズムかもしれないけれど、もし今の生活から少しだけ変わりたいのなら、新しいことに自ら飛び込んでいかなくちゃ、日本にいようが海外にいようが、結局は同じことなんだな、ということに気づく。

考えてみれば、これまで日本にいてできなかったことを、海外ではやれるというのは、なかなかハードルが高そうです(練習でできないことは本番でできない、みたいな)

でもこのことに気づいたうえで、この土地で勇気を出してやってみたことが、日本に戻ってからも、あるいはどこかまた別の国に行っても、できるということは、あるのかもしれない。

勝手にエキサイティングなことが舞い込んでくるわけはなさそうだけど、環境の違いを追い風にして、エキサイティングなことをやってみちゃうことは…できるのかも。

そう思ったら、結局今自分がいる場所でできることをやる、他力本願にならず自ら行動していく、ということなのでしょうね。
もちろん、それをしなくても全然良い。流れ着いた場所に漂うように、その場所を味わいながら静かに暮らす良さもありますものね。

つまり、「自分がどうなりたいか、どうありたいか知っていて、そのための行動ができる、そのための暮らしづくりができるということ」が大切なのだなあ、なんて思います。

私はその点、まだまだ。
というか、なんだか年齢を重ねるごとに、大事なことに限って迷いが深まって、難しいパズルみたいになっている気もするのですが…。

やれやれ、どうなることやら、と思うことも多いけれど。
でも、寝るときや起きたときに幸せや楽しさを感じられるような、そんな私なりの日常のかたちをつくっていくのに、すでに遅すぎるということは、きっとないのだと思います。

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