みなさま、おはようございます。
昨日、少ないもので生活していても、ときどき欲しいものが出てきてしまうということを書きました。
≫ ものを買いたくなる自分を自覚する
物欲ゼロで悟りを開いたわけでは全くないのでまだまだ道半ばですが、最近心地よく感じているのが、これ「で」いいと思えること。
これ「が」いい、が良いのか
これまで何度か、「これ『で』いい、じゃなくてこれ『が』いい」という言葉を耳にしたことがあります。
なんとなく、これ『が』の方が良いのだ、という文脈で。
そして少ないもので暮らすにあたっては、お気に入りのものばかり、まさに、これ「が」いいに囲まれて暮らすのが良いというような。
もちろん、素敵なことだと思います。私も持ち物はなるべく好きなものばかりで満たしたい。
でもそう思っていると、せっかく少ないもので生活していても、これ「が」いい、が繰り返し出てきてしまって、結局ものに振り回されてる?という経験もしています。(今もちょっとある)
そうであってはいけない、ということではないのですが、でもその度ちょっと疲れてしまう自分がいることにも気づいています。
違った環境で暮らしてみたら
ホーチミンシティで暮らしてもうすぐ3か月。
外国人として異国で暮らしているからなのか、はたまたホーチミンシティという土地柄なのか分からないけれど、ものへのこだわりは薄れているように感じます。
日本で販売している何かを欲しいと思っても手に入らないので、良い意味で簡単に諦めがつきます。
素敵な装いの人を見かけて、あんな風になりたいなという気持ちが湧くこともあるけれど、でもその人の装いが素敵なのはその人に似合う装いだから。同じものを私が着ても同じように素敵に見えるわけじゃない。私には私の素敵な装いがあるから、むやみに他の誰かを目指さない。
「このくらいは身だしなみとしてした方がいいでしょ」という暗黙の了解のようなものをあまり感じないので、私が一番心地よいと思う状態…上もゆるっと、下もゆるっとなリラクシーな服で毎日過ごしています。
カジュアルでも日本人の方の服装は小綺麗な感じな一方、私はそのままどこへでも行けそうな着古したリネンシャツとゆるっとパンツスタイル。快適なので日本でも気候が合えばこの装いを貫きますが、トレンドやテイストに当てはまらないのでちょっと不思議な感じに見えるかもしれません。
そんな感じなので、「だいたいこのくらいは」「変じゃないこんな雰囲気で」という人目を気にした判断を自分に対して下さなくなりました。
そうすると人と比べないから、人を羨ましく思ったり、それをもので解決しなくなったようにも思います。
真っ当な物との付き合い方
ホーチミンシティの若い世代はとてもおしゃれだと思います。
女性の服装に関して言えば、東南アジアっぽいミニ丈で肌を見せる魅力もありつつ、韓国文化の影響もあり、またこれは日本でも同じですが、ストリートやカジュアルなど皆いろんなスタイルを楽しんでいます。
そんななかで、なぜだか私が魅かれるのが「おじさん」たちのスタイル。
フードデリバリーを届けてくれる人や、飲食店の前の駐車場というか歩道のバイクを綺麗に並べる係りの人たち…
着古した長ズボンに、着古した衿つきシャツやTシャツ、使い込んだお財布…見かけるたびになんだか好感を持ってしまいます。
たぶん、私がそんなホーチミンシティのおじさんたちの服装や持ち物をいいなと思うのは、彼らがそれをとにかく使い込んでいるから。
擦り切れても、汚れても、でもまだ使えるから当たり前に使う。きっと壊れたりもう使えなくなったらやっと新しいものを買うのでしょう。
より良いものを見つけたら買い換える文化にいた私には、そのとことん使っているだろう姿勢が眩しく映るのでしょうね。
くたびれても汚れてもただ使う、そんな真っ当な物との付き合い方に魅かれるのだと思います。
まとめ
そんなわけで、私は今、これ「で」いいと思えることに不思議と満足感をおぼえています。
これ「で」の「で」について、どこか妥協した感じの意味合いではなく、足るを知るを表す高潔な意味合いとしての「で」という場所に、私は心地よさを見つけているのだろうな、と思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!何か参考になることがあれば嬉しいです。